邯鄲の夢
ずっと疲れている。何年も前からずっと。
くだらない幼稚なことばかり考えてしまう頭も、続く生活にも、社会にも、人間にも、疲れている。
何もない、何者にもなれない、なろうとする努力もしない自分がたまらなく嫌いだ。
日々に必死に抗っているフリをして、ただ従順に頭を垂らしている自分にうんざりする。
家族が立てる些細な物音にビクついて苛立つのに、通りすがる人の視線を気にして目を伏せて歩くのにももう飽きた。
世界は変わらない。私が変わるしかない。そんなことは分かっている。
もっと明るい性格で卑屈でなくて、休み時間に外で遊ぶような人間だったら楽だったのかもしれないし楽しかったのかもしれない。
まあそんなことどうだっていい、私は私に生まれついたのだから。
私はよくふざけて何かの信者でもないのに「来世は」と口にするが、私には信じている死後がある。人は死んでもなににもならず物体になるだけだ、という死後だ。
今年の夏に祖父が死んだ。あまりおじいちゃんっ子ではなかったし頻繁に会っていた訳でもなかったけど、悲しかった。
葬式はあまりにも死に近い場所で、人は死を避けようがないのだと感じた。
印象に残っているのは、焼かれて骨になった祖父が骨壷に詰められるとき、骨があまりに多かったので職員の方に骨を骨壷に入れられた後上からぎゅーっと押されていた場面だ。先ほどまで人の形をしていてなんなら皮膚はツヤツヤしていて安らかな顔をしていた祖父は白い塊となり、粉々になった。その光景はあまりにも物体だった、物体でしかなかった。人は死んだら物体になるだけだ、そう思った。
思うに、人は死に夢を見過ぎている。
例えば安いドラマでは不治の病気で人を殺しておけば感動すると思っている気がしてならないし、三文小説ではよく感動の道具にされ自殺している人間が見受けられる。
私は人の死をエンターテインメントの道具として軽々しく扱うなと言いたい訳ではないし、感動系のドラマやなんやで泣いちゃわない私wとか考えている訳じゃない。
ただ、人は死ねば死んだという事実と死体という物体が在るということがまず一義であると思うのだ。
もちろん人が死んだら悲しい。だけどそれは死という事実や死体という物体に悲しさを感じる訳でなく、自分とその人物、そしてその周りを取り巻く環境の中でその人物の死を自分に同化させたために悲しみを得ているだけだ。死を悲しむことは人の生存本能に基づいたプロセスなのだと思う。
インドで餓死した子供と老衰死した飼い犬は同じ死という事実に帰結しているのに片方が主体に何かの感情を喚起させにくいのはあまりにも自分との距離が遠すぎて同化できないからだ。
そこをすっ飛ばして、簡単に死を扱おうとする文化が私は嫌だ。
悲しいでしょ?泣けるでしょ?
インスタントな死は私たちの感覚を麻痺させ日常にたやすく侵入する。
文脈を無視した死など事実と物体でしかないというのに。
話は180度変わるが、話題に困ると他人の話をする人間が世の中には一定数いる。
私はそれがこの世で100番以内には嫌いだ。
私と話しているのはその人間自体であるのに、なぜ他の誰かの話をするのだろうか。
自分の話をすればいいと思う。
昨日食べた夕飯の話、最近面白かった映画の話、心に残っている小説の一節、歩いた道の脇に咲いていた花。
人間を構成しているものはなにも思想や心意気だけでない。人間は昨日を繰り返した澱みだ。日々些細なことに影響を受け変容していく。ならばそれを語れば良い。
誰かと誰かの噂話だとか、仕事の話だとか、誰でも語れることを聞きたくない。
私はあなたの話が聞きたい。
それから、話題に困ると恋愛の話を持ち出す人間が世の中には一定数いる。
彼氏はいるの?誰々と付き合ってるの?誰のことが好きなの?タイプは?
どうでもよくないか、そんなこと。こっちは最初から白馬の王子様なんか求めてねえし、自分に向けられた銃口の引き金を引いてくれる人間を探してるんだよ、今までもこれからも。