猫の撫で方を知らない

即死というのは「即」「瞬間」に死に至るわけではないらしい。

 

朝に母親と姉が喧嘩していて、あとでお風呂に入りに行ったら風呂場のガラスが割れていた。

それをみてなんだか全部どうでもよくなってしまって、シャワーを浴びたあと自分の部屋で適当な音楽をかけながら本を流し読みしていた。

文章は頭の中をツルツル滑って行った。脳みそにはシワがあるはずなのに。

本。文章。単語。文字。

記号の塊が意味を持つということはなんと美しく素晴らしいことか。

文字のある社会に生まれてよかったと思った。

 

最近、思い出したら泣いてしまう出来事があった。久しぶりに泣いた。踏ん切りも何もつかなくて、今も部屋でだらだら酒を飲み続けている。 

 

何かいい音楽とか、いい文章とか、自分が知らなかったことを真っ先に教えたい人がいた。

知識の共有は求愛行動と一緒だ。どこぞのアマゾンにいる青い鳥はオスがメスの気をひくために巣を作り、カラフルな花や石などでその周りを彩るらしい。ニジンスキーだとかAphex Twinだとか、私だけが知っていたいものを教えるという行為はその鳥の置く装飾品と一緒だった。

 

やりたいこと、知りたいこと、聞きたい音楽、見たい映画、どれもたくさんある。

マーラーの巨人、

ドアーズ、

チャールズブコウスキー

トリスタンツァラ

フルクサス

 

知りたいなと思うと同時に知りたくないなとも思う。知ることは無知が肥大していくことと一緒だ。知るたびに何か知らないことがまた増えていく。

 

インスタグラムを適当に見ていたらbioに信頼と思いやりと書いている人がいてどちらも私にはないもので嫌な気持ちになった。

犬はいい。

猫もいい。

人はダメだ。

何歳になっても人だけは好きになれない。

人が3人以上集まると嫌な気分になる。昔から。

 

 

死ぬ瞬間人は走馬灯を見るというが、私は一体どんな走馬灯を見るのだろうか。