日記,2022/02/22-2022/03/27

2022/02/22

せっかくアルバイトでいるのに何も教えてもらわないのももったいないなと思うが、労働について深く考えたくなくてやめた。

 

2022/02/24

いつか抱いた希死念慮は、薄氷のようにいつまでも体の裏側に張り付いている。

 

2022/02/26

発話のすべてが喃語すぎる。すべてに意味などないしそれを求めないでほしい。その場でヘラヘラして命をすり減らしているだけの毎日。

 

2022/02/28

ユベラ 100錠 2700円

シナール 100錠 1800円

グルタチオン 100錠 3500円

 

2022/03/01

リヒテンベルク 雑文集第2巻

ヨブ記

意志と表象としての世界

余録と補遺

醜の美学 カールローゼンクランツ

 

チューリヒ・ダダ運動の発起人のひとり、ドイツの詩人フーゴ・バルは、一九一六年第一回「ダダの夕べ」の講演で「言葉が言葉であることをやめ、しかも初めて言葉でありはじめるような、そんな場所にぼくは言葉を持ちたい」と語っている。“

 

2021/03/04

髪の毛をピンクに染めた。 

これは数多のタトゥーやピアスと同じように、名前を持った自分を捨てて軽やかな身に解脱を願う祈りのようなものだ。

 

2021/03/06

酔っ払って地面に倒れたらしい。起き上がっていたようで何よりだが、記憶をうしなっているので、酔っ払ったときなにを話したのかわからないのが毎回怖すぎる。

 

2021/03/07

人の目を見て喋ることができないのがいつから始まったのかは分からないが、それは特に苦手な行為だ。これには人の顔があまりにもグロテスクだから、という要因ももちろんあるだろうが、それ以外に相手がアイコンタクトを行う人間だった場合に、「自分を見られている」ということに、「自分の存在がはっきりと知覚されている」ということに耐えられないからというのが1番の理由だろう。

これがある種の醜形恐怖なのかはわからないけれども、私は捻くれた性格と歪んだアイデンティティによって、自身の実体する部分がどうしようもなく苦手だし、それを自分自身で直視ができずに逃げ回りながら生きている。そうやってなんとか見ないようにしてもがいているものを、他者というのは残酷なことに、いとも容易く私の前に突きつけてくる。可能であるならば液状に不定型に、夏が終わって水を抜かれたプールのそこにへばりつくどろどろの藻のようにありたいと願う私に、お前は形を持った個別具体の人間でしかないと彼らは雄弁に目をもってして語るのである。アイコンタクトは信頼の証などではない、己を監獄に閉じ込める支配の視線だ。

他人の目がありそうなそれっぽい位置を見ているフリをして、意味などこれっぽっちもない喃語を垂れ続ける無限地獄に苦しんでいる前に、私は一刻も早く、それこそ「まなざし論」とか言われている諸学を舐めた方が良さそうな感じがする。それが救いになるかは分からないが、自分は自分でしか救えないのだし、私だっていい加減に楽になりたい。

 

他者と向き合える人が羨ましい、それは自分と向き合えているということだからだ。私は自分を拒絶し、他者を拒絶し、それっぽくなんとなくヘラヘラ生きようとしては失敗し、何もかもをめちゃくちゃにしながら生きている。これは包丁を振り回しながら助けて!と絶叫し続けているのに等しい。

 

2022/03/09

鳥の表象試論 

ヒッチコック『鳥』

村上龍限りなく透明に近いブルー

 

”人とインタラクションしているときだけ人っぽい形を保っていられる。それ以外のときは限りなく液体に近く溶けている“

 

バイト先に本を持っていくのを忘れたので、Kindle Unlimitedで詩学を読んだらかなり面白かった。

 

“美は大きさと秩序のうちに存するからである。それゆえ、あまりに小さな生き物は美しくありえないであろう。なぜなら、観賞しようにも、ほとんど感知できないほどの短時間になるため、渾然として識別できないからである。また、あまりに大きな生き物も美しくありえないであろう。なぜなら、観賞しようにも、一挙には視野に収められないため、観賞者にとって一つの全体として観ることがかなわないからである。”

 

つまり、デカい犬は美であるが、ちんころとした犬はそうではないということだ。

 

犬と家はデカければデカいほど良いとされている。

 

2022/03/11

私は自分のやり場のない死にたさを人に向けているだけなのかもしれない。だから人が嫌いだし滅びてしまえばいいとさえ思っているのかもしれない。

 

デカい犬は健康にいい。屋号をデカい犬本舗にしたい。

 

春、天気が良すぎて麗かで、街行く人の顔はどこか朗らかで、私は死にたいが加速する。遮光カーテンを閉め切った部屋で、どうか早く夜になりますようにと願いながらうたた寝をした。生まれ変わるのならば、きっとたんぽぽがいい。健やかな陽光に恨めしさなど抱かずに、ただ健気に生きたかっただけなのに。

 

“観念的な自意識しかない大人子ども”

 

バイバイを告げたものたち

 

自分の愚かさも醜さも自分が一番よく知っているから、他者から許されることが怖いし、自分にはそんな価値なんてないと思う。だけれども、いつだって欲しいのは許しであるし救いである。

 

2022/03/12

ねむさだけがある。ほかにはなにもない。

 

私はかなり食べ物に好き嫌いがある。単に食感や味が嫌いというよりかは、食べる意義みたいなもので好き嫌いをしていることが多いし、それに一貫性がないから厄介だと思う。嫌いというよりかは、自分で進んで口に入れようとしないが近い。

例えばドーナツ。食事ほど満足感はないが、おやつにしては重すぎる。満足度の量に対して栄養バランスが終わっている。あとは多分、美味しいとされるドーナツでも感動の度合いがおそらく決まっているというか、いくら美味しくても「うん、ドーナツだな」の範疇に収まる美味しさだと思う。だから食べない。食べろと言われたら食べるし、嫌いなわけじゃないけど食べることに納得できないから自分では食べない。

例えば冷やしトマト。私はトマト嫌いを公言しているが、実はそんなに嫌いじゃない。何かにトッピングされているなど、その場にあったら食べる。でも冷やしトマトは別だ。居酒屋で冷やしトマトを頼むな。ツマミにならないことが多いし、見た目が「トマトだな〜」という感じで直球すぎるし、外食するなら普段食べれないものを食べたい。野菜を食べたいならサラダ、さっぱりしたいならおしんことか他にあるんだよな〜という考えが脳裏をよぎり続ける。だから外食でわざわざ冷やしトマトを食べることに納得できない。でもこれをいうのはめんどくさいし理解もされないだろうから、とりあえずトマトを嫌いだと言っている。

 

2022/03/13

後輩とサイゼリヤに行って飲んだ。エスカルゴを初めて食べて、もちろん美味しかったのだが、二人で期待しすぎていたことに一緒に笑った。映画の話、音楽の話、本の話、勉強の話、いろいろな話をした。やっぱり私はこういう話をするのも聞くのも好きだ。

酔っ払っていて覚えていないが、サイゼリヤを出た後ジュンク堂に行き(ここまでは薄ぼんやり覚えている)、後輩が買った本に金を払い強奪していったらしい。翌日、財布から現金と、ドンキホーテで買ったちいかわのヘアクリップ、それからネイルポリッシュを無くしていた。

 

2022/03/14

千駄木に焼酎を買いに行った。調べたら老舗のようだったので恐る恐る行ったが、お洒落な店内にお洒落な店員さんで安心して買い物ができた。焼酎のほかに、日本酒の品揃えも良かった気がする。目当ての知覧Tea酎と、そのほかに以前訪れた居酒屋でおすすめしてもらったフラミンゴを買った。フラミンゴはその日のうちに呑んで、とても美味しかった。微炭酸でないと香りがとんでしまうことに気づいて、おもしろいな〜と思った。また色々買いに行きたいし、千駄木自体がいろいろなお店があって楽しそうだったので遊びに行きたい。

 

昨日後輩から強奪した本の一冊のカント入門を読む。あまり好きではなかった。

 

人との距離感みたいなものが難しい。確かな他人に対する態度が一番うまくできる。

 

言葉も態度も、すべて私が発しているはずなのに、全部私のものじゃない気がする。

 

体育座りは身体の自由を奪う懲罰的な座り方だと言っていたのは誰だったか。

 

2022/03/15

ドライブマイカーを見た。重なり合う手、重ならない手。

 

ペンギン 焼酎

 

222/03/16

友人と話している中で、恋人に求めるものの話題になった。その友人は出かける時に本を持ち歩かない人間は嫌だと言っていた。私はそこまでではないけれども、確かに家に本が一冊もなかったり、思想のかけらもかんじられない本棚だったりする人間とは心底話が合わないだろうし、そういう恋人は嫌かもしれないと思った。

 

ガストのボロネーゼを初めて食べた。タバスコを思いっきり振りかけて食べた。すごく美味しかった。

 

死にたいという感情が膨張するのをやめ、陰帽子のようにただ寄り添うだけになってからどれくらい経つのか、今となってはわからない。もうここまで生きてしまったのだし、私は今後も死なない限り生き続けなくてはならないのだろう。この諦念が年を重ねるということなのか。

 

いつか死ぬために今日を延命し続けている。

 

2022/03/17

京都へ行くために夜行バスに乗った。

夜行バスをもう2度と使わないと誓った。

 

2022/03/18

夜行バスがついたのが早朝5時で、どこの施設も空いていなかったのでとりあえず西福寺を目指した。道すがらのローソンで、以前京都に来た時に食べてあまりの美味しさに感動した、調べても何もネットで情報が見つからない、墓前に備えてほしいとさえ思った鶏飯を見つけて、公園で食べた。地味だけれどもしみじみとした美味しさと温かさが夜行バスでかたまりきった体の節々に染み渡って、とても美味しかった。やっぱりこの鶏飯は墓前に備えて欲しい。

西福寺についてもまだ日が登る前で暗く、警備員らしきおじいさんに境内に侵入しているのを注意されるかと思ったら通りすがりのおじいさんで、おはようございますと挨拶された。東寺に着く頃には日が登っていて、老人たちがラジオ体操をしていた。

そのあと東寺からほどないデカい公園に足を向けた。少し前に話題になったエビフライの遊具があったり、広い公園にいろいろな種類の鳥があっちこっちを囀りながら跳び回っていたり、のどやかな朝の気配に一息つく。近所にこんな公園があればなんとも嬉しいことだろう。

散りかけの梅を見つつ、バスに乗って法然院に向かった。なんとなく朝早くからやっているという理由だけで行ったが、しんとした山中の苔むした寺に降り出した小雨がよく映えており、非常に心地いいこじんまりとしたお寺だった。開館まで少し時間があったが、少し遠回りをしながら銀閣寺へと向かう。京都の街はいたるところに水路があって歩いているだけで何だかたのしい。地元の高校生がはっきりとした関西弁で私を追い抜いていき、土地の違いを感じた。

銀閣寺には初めて行った。本殿へ続く砂利道からすでに楽しく、境内は手入れされた美しい庭園が広がっていて心を打たれた。目を向けるところ全てが新緑の美しさと雨の中の静寂に満ちており、何度も立ち止まりながら景色を噛み締めた。

法然院に向かうバスの最中で、以前訪れたうどんやを見かけたことを思い出し、予約の電話を鳴らしながら哲学の道南禅寺まで下って行った。80回目ちょうどにうどん屋と繋がって、10:50からの予約を取った。そのあとも哲学の道を20分ほど歩き続け、南禅寺に着いた。

南禅寺はこの旅程で絶対に行こうと思っていた場所で、京都の中でも一二を争うくらいに好きだ。本殿や水道橋をゆっくりと見て回りながら、しみじみと物思いに耽る。そのうちにうどん屋の予約の時間が近づいてきたので、名残惜しいものの南禅寺を後にした。

南禅寺の正門を出たところにブルーボトルコーヒーができていて、ちょうどコーヒーを飲みたかったので寄ってみる。時間があまりなかったのでテイクアウトでブレンドコーヒーを注文した。メニューに特段変わったところはないけれど、建物がとても瀟洒で立派だったのと、店員さんたちの物腰が柔らかですごく気持ち良かったので、また南禅寺に来るときにはここに立ち寄って、ゆっくりと店内でくつろぐことを心に決めた。

そうこうしているうちに、予約した時間ギリギリとなり、コーヒーを飲み切ることなくうどん屋にたどり着いた。人気のお店だったので危惧していたのだが、さすがに早い時間だったからか店先に人は並んでおらず、予約の名前を告げるとすぐに店内に入ることができた。注文は迷った末に温かいうどんに鶏天のセットと、ネットで見かけて好評だったごぼ天を追加注文した。

しばらくスマホをいじりつつ待っていると、注文したうどんセット、あとからごぼ天がやってきた。天ぷら各々の量が半端なく多く、次にくるときはシェア前提かどちらかだけにしようと思った。前来た時も思ったが、やっぱりここのお店のうどんはとても美味しい。ごぼ天は美味しかったが、ごぼうだなあというのが感想のいちばん手前にきた。鶏天はささみで、外はサクサクなのに中はしっとりしていて、鳥の旨味がぎゅっと詰まっていてこちらもまた美味しかった。うどんの美味しさは言うに及ばずで、これがコシともいうべき食感の麺は小麦が香り、関東の麺とは全然違って楽しかった。ここのうどんは麺が美味しいので、麺の良さを味わうために冷やしかつけ麺で頼むのがよいなとも思った。香味うどんというのもあり、そちらもまた気になるし、ぜひまた訪れたいものだ。かなりの量があったもののなんとか全て食べきり、ホスピタリティが溢れすぎている店員さんたちにも別れを告げ、腹ごなしに平安神宮を散歩することにした。ここのあたりで雨が本格的に降り出していて、寒さが身に染みる。平安神宮でトイレを借りようとしたが、トイレットペーパーが有料だったのでやめた。

ここまで朝から歩き続けさすがに疲れてきたので、一旦市民ホールのようなところに入り、トイレを借りた後、ベンチに座ってこれからどうしようかを決めることにした。アラビカコーヒーを飲みたい気持ちがあり、とりあえず清水のほうまで歩くことを決める。グーグルマップで調べていると、良さげな記念館があったのでそこへ向かってから折り返し清水に行こうかなあと考えつつ、清水の方面へ向かうことにした。早朝の東山方面は人通りがほぼなかったが、平安神宮から清水にかけて春休みらしき学生や家族の数がだんだんと増えていく。清水の方はかなり混んでいそうだったので、今回の旅行ではアラビカコーヒーは諦めることにした。道すがら、地元の中高生が春休みのレクリエーションなのか、ゼッケンをつけて走り回っている姿をたびたび見かけた。

当るなと書かれた主張の強いカラーコーンがある不動産屋の脇を抜けて、河井寛次郎記念館に到着した。古き良き日本家屋の中には、河井寛次郎の造形品が並び、季節の花が生けられていて、想像していた以上に良い場所だった。屋内の静謐な展示もさることながら、圧巻だったのは登り窯だ。煉瓦造りの巨大な窯が薄明かりの中ぼんやりと佇んでおり、まずその姿に気圧される。ところどころに空いた焼き物を入れる穴を覗き込むと、向こう側から漏れる光がわずかにその内部を照らしており、陶器の破片や木片が輪郭を縁取られている。あたりにはここで生み出されたものたちのエネルギーの余韻みたいなものが漂っていた。

展示と登り窯を一通り見終えたあと、館内の休憩スペースでこのあとどうしようかを決める。ふと気づくと足元に看板猫が横たわっており、嬉しかった。(このあと、私の足元にいたのは暖房の風がそこに当たるからだと気付き少しがっかりすることになる。)近くに喫茶店があったので、そこでしばらく休憩したのちに、龍安寺金閣寺を巡り、船岡温泉と源湯の銭湯巡りをすることにしよう。

河井寛次郎記念館の近くの小洒落た喫茶店はフルーツサンドとコーヒーが売りで、昼過ぎだったこともあり少し混み合っていた。座りながら順番を待ち、メニューを眺める。お昼ご飯はもう食べてしまったので、フルーツサンドは断念して、コーヒーを注文することにする。コーヒーの種類も3種類ほどあって、苦味が強いものかお店のブレンドコーヒーにするか考えあぐね、ブレンドコーヒーに決めた。コーヒーを淹れているのが見えるカウンター席に通され、しばらく待つと青磁色のカップとソーサーでコーヒーが出てきた。あまり自分の舌に合わなかったが、のんびりくつろぎ、14時ごろに店をあとにした。(会計のとき、財布を記念館に忘れていたことに気づき急いで取りに戻ったのには若干肝を冷やした。あってよかった。)

バスに揺られ、龍安寺を目指す。雨脚はさらに強まっていて、朝から歩き続けていたのと、しかもバスの中も湿気っていたのもあってこの時点でかなり疲れていた。龍安寺にたどり着くと、まさかの改修中で開いていなかった。疲れもあって、金閣寺をめぐる気力もなくなり、寒いしお湯で疲れを癒そうととりあえずバスで船岡温泉を目指す。

 

2022/03/20

池袋を歩いていたら鳩に喧嘩を売られて悔しかった。

 

2022/03/21

会話のキャッチボールじゃなくてピッチャーとバッター

 

過去の自分が救われないから、せめて自分だけでも手を差し伸べる。それはひたすらに明日を拒み続けて、昨日をぐるぐると回り続ける痴呆でしかない。それでも私は昨日の自分が救われないから昨日を生き続ける。それが10代に死にぞこなった私自身への手向けだろう。

 

寝顔が愛おしいのは犬猫だけだろ

 

2022/03/22

日本映画オルタナティブ

 

2022/03/23

“まずは「書く」ことを玉座から引きずり下ろし,幻想を捨ててただ書けることを書くこと──まったくそのとおりだけれども,どうにも受け入れられない。たぶんわたしは子供で,夢見がちで,未だに全能性を信じていて,自分だけは死なないと思っているのだろう。無能を悟るのは難しく,死ぬのはいつも他人ばかりだ。”

https://note.com/sugi4961/n/n5cd14635885a

 

ラカン入門 向井雅明 ちくま学芸文庫

フロイト自我論集 ちくま学芸文庫

差異と反復 河出文庫

 

2022/03/24

ドゥルーズと狂気,小泉義之,河出ブックス.がかなりおもしろい。ドゥルーズの概論かつ入門書で、初学者にもわかりやすく書かれている。ときどきこれはどういうことだ?と思う点があっても、読み進めているとちゃんとそういう疑問点に答えてくれるところも好きだ。

 

2022/03/25

私は心底自分に価値を認めていない。傲慢以外の何者でもないが、例えば自分を肯定してくれる人間の側にいるのが苦手だ。

私は自分が崇敬する人間に、お前は痴れ者だとなじられ、自分の無価値さや愚かさに安堵を覚えていたい。そして自らが信奉するその高貴な者の中に、鮮やかな人間性を見出し、それに目を眩ませ、酔い続けていたいのだ。

世にある恋愛は肉欲の僕とまでは言わないが、性的接触を暗黙のうちに目配せするものとしていることが多いように思える。私はこの肉体を前提とした人間関係が苦手だ。このどうしようもなく抗い難い肉の本能が垣間見えた時、自分が心酔する一種の神様でさえある人間が、肉を持ち地に堕ちるように感じる。結局、それが自分にとってどんなに美を見出した理知的で崇高な生き物であったとしても、他のあらゆる動植物と同じように遺伝子の箱でしかないことをまざまざと見せつけられたような気がして、自分勝手に深く絶望してしまう。

私は無知であるが故にテクネーの従順な下僕でありたいが、肉の檻がそれを阻み続けている。

 

最近ひどく眠いし頭も体もぼーっとする。春の生ぬるく何もかもを許すような長閑さに苛立ちを覚える。誰も彼も愛したいと思う数時間後には無気力に横たわるしかない時間が訪れる。多分私は暇すぎるだけなのだろう。早くぐっすりと眠りたい。

 

ある日突然首を吊って死んでみんなをびっくりさせたいみたいなそういう欲求がずっとある。

 

あんまり人前で死にたいって言っちゃダメらしい。

 

自分が躁鬱かBPDなのではないかという疑念が人生において付きまとい続けている。自己判断ではあるが、おそらく軽度のBPDであるような気がする。試し行為や極度の理想化など当てはまる点は多い一方で、過度な自傷行為は見られない。(とはいえども、セルフネグレクトや異常散歩、過食がそれに入るような気もするが......。)

 

見捨てられ不安についての覚書

“この病気の人は、見捨てられそうだと感じると一般に恐れを抱き、怒ります。例えば、自分にとって重要な人が約束に数分遅れたり、約束をキャンセルしたりするとパニック状態に陥ったり、激怒したりすることがあります。患者はこのような間違いが、自分とは関係のない事情ではなく、自分について相手がどのよう感じているかが原因であるとみなします。患者は約束がキャンセルされたのは、相手が自分を拒絶しており、自分が悪いからだと考えることがあります。その反応の強さは、患者の拒絶に対する敏感さを反映しています。”

(境界性パーソナリティ障害(BPD) - 10. 心の健康問題 - MSD Manuals)

遅刻やドタキャンについては自分がしまくるのであまり気にしないようにしているが、この傾向はあると思う。私が拒否反応を起こしやすい状況に、約束の梯子、相手との予定のすり合わせの難航がある。

これらの状況において、自分が軽んじられているかのように感じるというか、他者の中に占める私の割合みたいなものが紙ペラのようなもののようであると思い込んでしまうし、あまつさえその人にとって私は他の人よりも劣っていて取るに足らない人間なのだと感じてしまう。多分こうした感情はすべて認知の歪みから起きているに他ならないだろう。

特に嫌なのは約束の梯子と、二人で遊んでいる(遊ぶ予定)だったのに、直前かその場で誰かを呼ばれることだ。約束の梯子なんかは事前に知らされていれば大丈夫なのだが、当日に「このあと予定あるから(^^)/」と言われると、別れたあとに大抵の場合世界に対して呪詛を吐きながら爆泣きして帰路についている。

各々が時間をつくって私と予定したものを遂行してくれている時点で、私は軽んじられてもいないし、程度はあれどもそれなりの人間関係内にいるのだという事実を、私はまず認めるべきだ。そうして次の予定に発つ彼らにまた遊ぼうねと別れを告げ、今日の余韻に浸りながら、再び会うその時を楽しみにして眠りにつけば良い。それはきっと健やかで幸せだろう。

 

2022/03/26

人の顔ってかなり怖い。

毛穴を想像するとゾッとする。

 

この瞬間や空間をめちゃくちゃにしたいという破壊衝動から発話することがたびたびある。この破壊衝動からの発話は自覚的に行なっていることが多いが、無自覚に発話をするフリをしているうちに、素でしてしまうようになった気がする。これが生来のものなのか、フリが身となってしまったのか、もう区別できない。

 

何回考えても浮気も不倫もやった奴が悪すぎる。自分の下の管理もできない奴が人間ヅラをするな。

 

吟香 鳥飼

 

“君等が物に名付けるとは、その物に、君等が生きるよすがを求められればこそだ。”

“実人生の必然性からの直接の結果として文学の必然性は生れない。”

 

最近スマホの通知が怖いから、普段からおやすみモードにしている。でもいっつもスマホを見ているから、来たメッセージなどにすぐ気がつくのであんまり意味がない。

 

2022/03/27

人間の中に詩を見出す。詩を求る人生。