己の矮小さと世界の膨大さを知った日
多分私は世に言う社会不適合者なのだと思う。
人が集まっているのが嫌いだ。
人と喋るのが嫌いだ。
人と関わるのが嫌いだ。
社会と断絶した暮らしを日々夢見て生きている。
帰属すべき集団を失った人間は孤独にただぼんやりと生を浪費する他にない。
インターネットを眺めれば知らない誰かの自撮りと、食べたらしい美味しいものの写真、意味のない喧嘩で溢れかえっている。
インターネットが発達した現代はあまりにも情報過多でグロテスクだ。
虚構の中の現実なのか、現実の中の虚構なのか。境界は曖昧に揺らめいている。
今日も中東では紛争で人が死んでいる。それは誰にとっての現実なのだろうか。
今日も地下アイドルは加工を何重にも貼り付けた画像を世界に放流する。それは誰にとっての現実なのだろうか。
人間は現実を取捨選択して生きているのかもしれない。情報過多なこの世界で全てを現実として受け止めることは難しい。
自分と自分の周囲に存在する人間で構成される半径10cmの中のものだけが多くの人の前に立ち塞がっているように感じる。
私にはその10cmがなかった。
人を拒否する私には現実がなかった。
インスタで流れる数多のキラキラしたストーリーも、Twitterで流れる知人の憤怒も、なにもかも知らないもの、興味のないもの、関係のないものでしかないのだ。
現実に適応できず、ただ息をしていた。
だが思っている以上に世界は無情なほど大きく、星の数より多くのリアルが地球上で再生され続けている。
今日もどこか紛争で人は死んでいるし、性的に搾取されている子供がいる。
もっと身近なところで言えば、在日朝鮮人として差別されている人や、JKビジネスに悪用されている女子高生がいる。虐待されている子供がいる。人の身勝手で殺処分されている犬がいる。
全部誰かにとっての現実で、誰かにとっての虚構だ。
きっと私の周りの人の誰の現実でもない。社会に生き、コミュニティに属し、自らの現実を持つ彼らの、誰の現実でもない。
社会から逃げ出している私はこれを自分の半径10cmに加えた。
そうすることで息をすることが少し楽になった気がした。
心を痛める訳でもないし、自分でどうにかしようと思う訳でもない。
ただ受け入れるべき現実を持たない私はこうして社会と向き合うしかないのだ。
それが社会的生物として生まれ落ちてしまった、社会的欠陥品の私のせめてもの贖罪なのだと信じて。