視線と病

 人の目を見て喋ることができないのがいつから始まったのかは分からないが、それは特に苦手な行為だ。

 これには人の顔があまりにもグロテスクだから、という要因ももちろんあるだろうが、それ以外に相手がアイコンタクトを行う人間だった場合に、「自分を見られている」ということに、つまりは「自分の存在がはっきりと知覚されている」ということに耐えられないからというのが1番の理由だろう。

 これがある種の醜形恐怖なのかはわからないけれども、私は捻くれた性格と歪んだアイデンティティによって、自身の実体する部分がどうしようもなく苦手だし、それを自分自身で直視ができずに逃げ回りながら生きている。

 そうやってなんとか見ないようにしてもがいているものを、他者というのは残酷なことに、いとも容易く私の前に突きつけてくる。可能であるならば液状に不定型に、夏が終わって水を抜かれたプールのそこにへばりつくどろどろの藻のようでありたいと願う私に、お前は形を持った個別具体の人間でしかないと彼らは雄弁に目をもってして語るのである。アイコンタクトは信頼の証などではない、己を監獄に閉じ込める支配の視線だ。

 他人の目が恐らくあるであろう、それっぽい位置を見ているフリをして、意味などこれっぽっちもない喃語を垂れ流し続ける行為に一丁前に冷や汗と吐き気を覚え、日々の社会生活を無限地獄と同等に苦しんでいる前に、一刻も早く、それこそ「まなざし論」とか言われている諸学を舐めた方が良さそうな感じがする。それが救いになるかは分からないが、自分は自分でしか救えないのだし、私だっていい加減に楽になりたい。