されど透明な他人の血
最近本を読んでいて思うのは、文学には限界があるということだ。
本というのは分解していけば節の集まりで、一文の集まりで、文字の集まりでしかない。つまり書かれたものというのは、それが書かれたものである以上、文字から逃れられないのである。
文字ないし言葉というのは定量的であるように思う。
例えば「白い猫」という言葉があったとして、この言葉を見た人間が思い浮かべるのは「白い」「猫」であって、そのものは黒くも茶色くもなく、犬でもイルカでもないはずだ。
ここで想起されるものが個人に由来するある特定の「白い猫」であったとしても(鼻が黒く、毛並みに多少ぶちがあるとか)、それは「白い」と「猫」という言葉が限定する物体の枠組みにおさまる範囲内であるはずだ。
そうであるとするならば、本を読むということは、プレイヤーにレコードをかけてそこに記録された変わらぬ音楽を再生するように、紙の集まりに印字された文字の塊を文章として再生するということに他ならない。
私たちはとうの昔、生まれた瞬間に死んだ記号を見て、理解して、それを「読む」と言っているのではないか。
そう、死んでいるのだ全部。私たちは死を再生するレコード・プレーヤーにすぎない。
だから私は文学に限界を感じる。
誰しもが自分のアイデンティティを探しもがき苦しんでいるこの時代に単一化された符号を与えられるだけで、肥大化する思考だけで、私は自分のアイデンティティが満たされるとも確立されるとも思っていない。何か、何かないのだろうか。
あらゆる限界をぶち壊し、カオスティックでドラマチックな現実を見たい。
知や美、もしくはそれらが構成する人間というものが、なにかに隷属するのではなく、リアルタイムで脈動しインフレーションを起こす"今"の観測者になりたい。
生み出した次の瞬間に死んでいく文字に生命を与え意味が確立されていく現場に立ち会う経験ができないかずっと考えている。
音楽のライブとかがそういうものなのかなとも思いつつ、なんだかそれとも違うという予感もする。
自分が求めているものの正体も解決法もまだ見つけられていない。だがそれらが見つけられた時、きっとそれはアルコールもニコチンもセックスもドラッグも及ばない、圧倒的な快楽が得られるような気がする。