アメフラシは今日も乾涸びている

私は女の子でいることがあまり得意じゃない。

数千円で買い続けなければいけないファストファッションも、数時間並ばないと食べれないパンケーキも、きっと一生好きになれることはないと思う。

私にとっての”女の子”像とは消費社会の象徴であり、”可愛くありなさい”という誰しもの無意識に流れるハウリングは呪縛だ。

生きるということはそれだけでとても難しいのに、人は今のところ性別という枷からも重圧を受けているように感じてならない。

世の女の子に対する信仰やかわいいへの崇拝にはうんざりだ。

そこから外れてしまったら人は価値がないのか、それすらもかわいいとして価値をつけられるのか、私の脳内では常にそういう思考ゲームがシュミレートされている。

一体どこからどこまでが私自身の価値で、どこからどこまでが女という文脈がもたらす価値なのだろうか。

私が対峙するこの人間たちは、私が女としてあるから好ましいのではないのか、たまたまそれなりに整っているらしい容姿をしているから受容されているだけなのではないのか。

私は女性でも女の子でもなく、ただの人間で、それ以上でもそれ以下でもない。

それなのに私は普通にしているだけで女の子であり女性を強いられ続けている。

そしてきっと無意識の中で私もそれを利用していて、その事実に耐えられない。

自分の中の自分と、社会に映る自分は鏡のようでそうでない。

社会に歪に投影された自己は文脈の中で今日も消費されていくし拒絶されていく。

男とか女とか男尊女卑とか女尊男卑とか異性愛とか同性愛とか女社会とか男社会とか女の子は誰だってかわいいとか女だけどかっこいいとか女子高生の間で大人気とか女子会とか女男女男女女女女女…

 

いい加減人間として生きさせてくれ。