ホモ・サピエンス

小さい頃、こんな妄想をしていた。

この世界には人間に紛れた「ヒトモドキ」がいて、誰からもそれが人ではないと気づかれないままに暮らしていると。

そしてそれもまた、自分が人ではないと気づけないのだと。

そんな妄想をしていた。

今もまだそんな妄想は続いていて、きっとこれからもずっと。

その水は琥珀の色をしていた

レコード屋も古本屋もない町に生まれた。

この町には何もないのに空は狭い。

 

「自由じゃないから 不幸なのかどうか」

「あるいは私は不幸だから自由じゃないのか」

昨日見た映画のワンシーンが頭のずっと奥で蠢いているのは気のせいだろう。

 

胃の底の方に沈む何かに対する不安は、時折ぷかぷか顔を出す。息をするために水面を目指す鯨みたいに。

夜、君を想うということ。

精神的向上心のないものは馬鹿だ、と夏目漱石はKに語らせた。

いつまで経っても人間は好きになれないし、嫌いな女は今日も生きている。

フィルムカメラで写真を撮ろうとしたらフィルムが切れていた。

図書館で借りた本は読む気になれなくて床に転がっている。

 

二十歳までに死のうと思っていたのにもうすぐその年齢になってしまう恐怖が今日も募っていく。

伽藍堂の外側は日々劣化しているらしい。

母は二十歳を心から祝いたいと私に言った。

まだ子供でいたいと話した相手にはもう大人でしょと言われた。

冬の空気は乾いている。

 

エンターテインメントが好きなのだと友人は目を輝かせて語った。

私は頷けなかった。頷く代わりによくわかりもしない芸術について語った。

バイトのシフトが前ほど入らなくなった。接客は嫌いなのでほっとした。

 

寝たらまた明日が来て、寝なくてもまた明日が来る。

 

アメフラシは今日も乾涸びている

私は女の子でいることがあまり得意じゃない。

数千円で買い続けなければいけないファストファッションも、数時間並ばないと食べれないパンケーキも、きっと一生好きになれることはないと思う。

私にとっての”女の子”像とは消費社会の象徴であり、”可愛くありなさい”という誰しもの無意識に流れるハウリングは呪縛だ。

生きるということはそれだけでとても難しいのに、人は今のところ性別という枷からも重圧を受けているように感じてならない。

世の女の子に対する信仰やかわいいへの崇拝にはうんざりだ。

そこから外れてしまったら人は価値がないのか、それすらもかわいいとして価値をつけられるのか、私の脳内では常にそういう思考ゲームがシュミレートされている。

一体どこからどこまでが私自身の価値で、どこからどこまでが女という文脈がもたらす価値なのだろうか。

私が対峙するこの人間たちは、私が女としてあるから好ましいのではないのか、たまたまそれなりに整っているらしい容姿をしているから受容されているだけなのではないのか。

私は女性でも女の子でもなく、ただの人間で、それ以上でもそれ以下でもない。

それなのに私は普通にしているだけで女の子であり女性を強いられ続けている。

そしてきっと無意識の中で私もそれを利用していて、その事実に耐えられない。

自分の中の自分と、社会に映る自分は鏡のようでそうでない。

社会に歪に投影された自己は文脈の中で今日も消費されていくし拒絶されていく。

男とか女とか男尊女卑とか女尊男卑とか異性愛とか同性愛とか女社会とか男社会とか女の子は誰だってかわいいとか女だけどかっこいいとか女子高生の間で大人気とか女子会とか女男女男女女女女女…

 

いい加減人間として生きさせてくれ。

 

 

されど透明な他人の血

最近本を読んでいて思うのは、文学には限界があるということだ。

本というのは分解していけば節の集まりで、一文の集まりで、文字の集まりでしかない。つまり書かれたものというのは、それが書かれたものである以上、文字から逃れられないのである。

文字ないし言葉というのは定量的であるように思う。

例えば「白い猫」という言葉があったとして、この言葉を見た人間が思い浮かべるのは「白い」「猫」であって、そのものは黒くも茶色くもなく、犬でもイルカでもないはずだ。

ここで想起されるものが個人に由来するある特定の「白い猫」であったとしても(鼻が黒く、毛並みに多少ぶちがあるとか)、それは「白い」と「猫」という言葉が限定する物体の枠組みにおさまる範囲内であるはずだ。

そうであるとするならば、本を読むということは、プレイヤーにレコードをかけてそこに記録された変わらぬ音楽を再生するように、紙の集まりに印字された文字の塊を文章として再生するということに他ならない。

私たちはとうの昔、生まれた瞬間に死んだ記号を見て、理解して、それを「読む」と言っているのではないか。

そう、死んでいるのだ全部。私たちは死を再生するレコード・プレーヤーにすぎない。

だから私は文学に限界を感じる。

誰しもが自分のアイデンティティを探しもがき苦しんでいるこの時代に単一化された符号を与えられるだけで、肥大化する思考だけで、私は自分のアイデンティティが満たされるとも確立されるとも思っていない。何か、何かないのだろうか。

あらゆる限界をぶち壊し、カオスティックでドラマチックな現実を見たい。

知や美、もしくはそれらが構成する人間というものが、なにかに隷属するのではなく、リアルタイムで脈動しインフレーションを起こす"今"の観測者になりたい。

 

生み出した次の瞬間に死んでいく文字に生命を与え意味が確立されていく現場に立ち会う経験ができないかずっと考えている。

音楽のライブとかがそういうものなのかなとも思いつつ、なんだかそれとも違うという予感もする。

自分が求めているものの正体も解決法もまだ見つけられていない。だがそれらが見つけられた時、きっとそれはアルコールもニコチンもセックスもドラッグも及ばない、圧倒的な快楽が得られるような気がする。

邯鄲の夢

ずっと疲れている。何年も前からずっと。

くだらない幼稚なことばかり考えてしまう頭も、続く生活にも、社会にも、人間にも、疲れている。

何もない、何者にもなれない、なろうとする努力もしない自分がたまらなく嫌いだ。

日々に必死に抗っているフリをして、ただ従順に頭を垂らしている自分にうんざりする。

家族が立てる些細な物音にビクついて苛立つのに、通りすがる人の視線を気にして目を伏せて歩くのにももう飽きた。

世界は変わらない。私が変わるしかない。そんなことは分かっている。

もっと明るい性格で卑屈でなくて、休み時間に外で遊ぶような人間だったら楽だったのかもしれないし楽しかったのかもしれない。

まあそんなことどうだっていい、私は私に生まれついたのだから。

私はよくふざけて何かの信者でもないのに「来世は」と口にするが、私には信じている死後がある。人は死んでもなににもならず物体になるだけだ、という死後だ。

今年の夏に祖父が死んだ。あまりおじいちゃんっ子ではなかったし頻繁に会っていた訳でもなかったけど、悲しかった。

葬式はあまりにも死に近い場所で、人は死を避けようがないのだと感じた。

印象に残っているのは、焼かれて骨になった祖父が骨壷に詰められるとき、骨があまりに多かったので職員の方に骨を骨壷に入れられた後上からぎゅーっと押されていた場面だ。先ほどまで人の形をしていてなんなら皮膚はツヤツヤしていて安らかな顔をしていた祖父は白い塊となり、粉々になった。その光景はあまりにも物体だった、物体でしかなかった。人は死んだら物体になるだけだ、そう思った。

 

思うに、人は死に夢を見過ぎている。

例えば安いドラマでは不治の病気で人を殺しておけば感動すると思っている気がしてならないし、三文小説ではよく感動の道具にされ自殺している人間が見受けられる。

私は人の死をエンターテインメントの道具として軽々しく扱うなと言いたい訳ではないし、感動系のドラマやなんやで泣いちゃわない私wとか考えている訳じゃない。

ただ、人は死ねば死んだという事実と死体という物体が在るということがまず一義であると思うのだ。

もちろん人が死んだら悲しい。だけどそれは死という事実や死体という物体に悲しさを感じる訳でなく、自分とその人物、そしてその周りを取り巻く環境の中でその人物の死を自分に同化させたために悲しみを得ているだけだ。死を悲しむことは人の生存本能に基づいたプロセスなのだと思う。

インドで餓死した子供と老衰死した飼い犬は同じ死という事実に帰結しているのに片方が主体に何かの感情を喚起させにくいのはあまりにも自分との距離が遠すぎて同化できないからだ。

そこをすっ飛ばして、簡単に死を扱おうとする文化が私は嫌だ。

悲しいでしょ?泣けるでしょ?

インスタントな死は私たちの感覚を麻痺させ日常にたやすく侵入する。

文脈を無視した死など事実と物体でしかないというのに。

 

話は180度変わるが、話題に困ると他人の話をする人間が世の中には一定数いる。

私はそれがこの世で100番以内には嫌いだ。

私と話しているのはその人間自体であるのに、なぜ他の誰かの話をするのだろうか。

自分の話をすればいいと思う。

昨日食べた夕飯の話、最近面白かった映画の話、心に残っている小説の一節、歩いた道の脇に咲いていた花。

人間を構成しているものはなにも思想や心意気だけでない。人間は昨日を繰り返した澱みだ。日々些細なことに影響を受け変容していく。ならばそれを語れば良い。

誰かと誰かの噂話だとか、仕事の話だとか、誰でも語れることを聞きたくない。

私はあなたの話が聞きたい。

それから、話題に困ると恋愛の話を持ち出す人間が世の中には一定数いる。

彼氏はいるの?誰々と付き合ってるの?誰のことが好きなの?タイプは?

どうでもよくないか、そんなこと。こっちは最初から白馬の王子様なんか求めてねえし、自分に向けられた銃口の引き金を引いてくれる人間を探してるんだよ、今までもこれからも。

己の矮小さと世界の膨大さを知った日

多分私は世に言う社会不適合者なのだと思う。

人が集まっているのが嫌いだ。

人と喋るのが嫌いだ。

人と関わるのが嫌いだ。

社会と断絶した暮らしを日々夢見て生きている。

帰属すべき集団を失った人間は孤独にただぼんやりと生を浪費する他にない。

 

インターネットを眺めれば知らない誰かの自撮りと、食べたらしい美味しいものの写真、意味のない喧嘩で溢れかえっている。

インターネットが発達した現代はあまりにも情報過多でグロテスクだ。

虚構の中の現実なのか、現実の中の虚構なのか。境界は曖昧に揺らめいている。

 

今日も中東では紛争で人が死んでいる。それは誰にとっての現実なのだろうか。

今日も地下アイドルは加工を何重にも貼り付けた画像を世界に放流する。それは誰にとっての現実なのだろうか。

 

人間は現実を取捨選択して生きているのかもしれない。情報過多なこの世界で全てを現実として受け止めることは難しい。

自分と自分の周囲に存在する人間で構成される半径10cmの中のものだけが多くの人の前に立ち塞がっているように感じる。

 

私にはその10cmがなかった。

人を拒否する私には現実がなかった。

インスタで流れる数多のキラキラしたストーリーも、Twitterで流れる知人の憤怒も、なにもかも知らないもの、興味のないもの、関係のないものでしかないのだ。

現実に適応できず、ただ息をしていた。

だが思っている以上に世界は無情なほど大きく、星の数より多くのリアルが地球上で再生され続けている。

今日もどこか紛争で人は死んでいるし、性的に搾取されている子供がいる。

もっと身近なところで言えば、在日朝鮮人として差別されている人や、JKビジネスに悪用されている女子高生がいる。虐待されている子供がいる。人の身勝手で殺処分されている犬がいる。

 

全部誰かにとっての現実で、誰かにとっての虚構だ。

 

きっと私の周りの人の誰の現実でもない。社会に生き、コミュニティに属し、自らの現実を持つ彼らの、誰の現実でもない。

社会から逃げ出している私はこれを自分の半径10cmに加えた。

そうすることで息をすることが少し楽になった気がした。

心を痛める訳でもないし、自分でどうにかしようと思う訳でもない。

ただ受け入れるべき現実を持たない私はこうして社会と向き合うしかないのだ。

それが社会的生物として生まれ落ちてしまった、社会的欠陥品の私のせめてもの贖罪なのだと信じて。